西アサヒ創業物語へようこそ
- 創業家 加藤大典
- Jan 5, 2017
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皆様、はじめまして。名古屋喫茶西アサヒ創業家三代目の加藤大典ともうします。ご縁があり、名古屋で最も古いと言われる西アサヒの長男として生まれ、西アサヒとともに育って参りました。大学院で米国に渡り、それ以来、米国で10年以上活動を続けてております。ほぼ4年前に、父であり、「まーちゃん」としてご愛顧いただいてきました先代のマスターが突然病気で倒れ、米国から通いながら、看病、営業再開、新たな形態での伝統の継承を行ってきております。父である先代が一昨年の12月29日に旅立ち、先日一周忌法要を行い、忌明けとさせていただきました。これからは、先代が倒れてからの数年間に私に口述で残した西アサヒの歴史や、先先代、古くからの常連様、親類縁者、那古野の地元のみなさまから伝え聞いてきた、数々の西アサヒの逸話、物語をご紹介させていただいていただきます。多くの物語はみなさまの記憶の中にありますので、その整合性を固めるためにも、昨年一年間は、創業加藤家はもとより、実質創業者の祖母、きぬゑの実家、鈴木家の足跡をたどるべく、市役者などで戸籍調査などを行ってまいりました。プライバシーの確保などから、話の内容を割愛させていただく場合もありますので、学術的な歴史というよりは、西アサヒを舞台にした読み物として楽しんでいただければありがたいです。話は創業前夜、創業期、拡張期、そして現在と流れてゆきます。明治生まれの女性起業家であった祖母からは尾張藩の土着中流侍の加藤家が、明治維新によって失業侍、浪人になった時の話をよく聞かされました。まさしく「武士は食わねど高楊枝」の話です。名古屋で一番古い商店街、円頓寺商店街。名古屋城築城と尾張の首都の移転の命を受け、清洲から町ごと引っ越した、清洲越の時に移された五条橋のたもと、旧橋詰町にある喫茶西アサヒ。名古屋城建築の職人や武士、その家族などが住んだであろうこの場所で、どのように80年以上前にコーヒー豆を仕入れたのか、誰が、どのようなルートを作ったのか。今回の調査で判明したことは、加藤家の創業物語は、幕末まで遡るということでした。


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